【DRC本部ニュース】
平成21年2月20日(金)の日刊工業新聞(朝刊)にOBの村口 和夫氏(S47年法学部卒・同志社香里高校出身)の掲載記事がありましたので、皆さんにその全文をご紹介いたします。
なお、この村口氏には京田辺ラグビーグラウンド横のラグビー部BOX建設、並びにD.R.C.ハウス建設に非常にご尽力いただきました事を併せてご報告いたします。
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★わが友 わが母校★
同 志 社 大 学
新日鉄エンジニアリング
執 行 役 員
村口 和夫氏 (59)
まだ大学入学前の春休みに、ラグビー部の岡仁詩監督から「すぐ練習に来い」と呼ばれたのがきっかけで、ラグビー部に入部。最初は練習についていくのがやっとだったが、夏合宿が終わるころには、右ウィングの正選手になっていた。10月に社会人の近鉄と試合があり、惜敗するも2トライを挙げ、完全にレギュラーに定着した。
それからはずっとトライゲッター。1シーズンに15-16トライはしたかな。1試合7トライの記録もある。足は速くなかったが、タックルに来る相手をすれ違いざまに抜く技があった。手を使って相手をよけるハンドオフもうまかった。チームも強く、関西リーグでは3回生の時に1度負けただけ。だが、残念ながら、関東の大学と戦う大学選手権ではついに優勝できなかった。
就職シーズンには、近鉄や東京三洋などから猛烈な勧誘を受けた。ただ、岡監督と当時、新日本製鉄釜石製鉄所の市口順亮監督が懇意で、あっという間に話が決まってしまった。当時の釜石は田舎のチームだったが、ラグビーの研究は最先端。その雰囲気が同志社と似ていて、厳しい上下関係もなかった。釜石が7連覇する最初の年まで6年間、現役を続けた。引退後、釜石は同志社大と4回、日本選手権で対戦したが、私だけ新日鉄側から大学側席に向かい、岡監督と一緒に応援した。
今でも、チームで同期の徳原永宅君(元丸紅)や長田文隆君(大阪府中小企業信用保証協会)、吉野英一君(元明治安田生命)、阪口武嗣君(塩野義製薬)らと、年に4-5回は応援に行く。その後は決まって飲み会。徳原君は今、同大でコーチをしており、「最近、勝てないのは教え方が悪いんじゃないか」と、つい口に出してしまう。
2010年には創部100周年を迎える。この年は何としても大学選手権で優勝してほしい。そのために何ができるか。我々OBは今、そのことで頭の中がいっぱいだ。
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<情報委員会 TM>